
先代から受け継ぎ、学び、発展させる
当事務所の代表の竹澤と申します。私は平成27年7月に代表に就任しました。先代の川上金四郎が亡くなったことによる代表就任ですので、私は2代目です。ただし、川上とは血の繋がりは無く、全くの他人です。

私は平成27年3月からこの事務所に勤務していますが、それまでは前橋市内の社労士事務所に10年間勤務社労士として働いていました。
私自身、当時はいろいろとあって、せっかくの機会だから新たな道を切り開こうと独立を考えていました。
平成27年2月の初め頃に、当時勤務していた事務所の所長に「すぐに川上さんに会いに行くように」と突然言われました。
実は先代の川上はこの事務所の出身で、そこから独立をして、高崎市内で今の事務所の前身となる川上労務センターを経営していました。
川上と当時勤務していた所長は同じクリスチャンで、お互いに仕事のことを相談しあっていました。
私自身、社労士会に入会したときに当時支部長をしていた川上にあいさつに行っていました。そんなこともあって社労士会の行事などであったりすると話かけてきてくれたりと、全く知らない関係ではありませんでした。
「川上労務にすぐに移ってほしい!」
2月中旬に私は川上に会いに行きました。
その日、川上から現在取り組んでいることなどを聞かせてもらいました。そして「自分はなぜここ呼ばれたのだろうか?」と内心思いながらも帰ろうとしたところ、突然、「川上労務にすぐに移ってほしい!」と切り出されました。戸惑う私に、「(私が当時勤務していた)所長さんとは話がついている」「私は病気になってしまって、息子が3人いるが事務所を継ぐ気がない。事務所が大ピンチだ。3月中に来られるか? やる気はあるか?」と言われました。
「事情は分かりましたが、そんな急に言われても…。自分は30社以上の顧客を抱えているし、ありがたいお話ですが、少し考えさせて下さい」とだけ伝えて事務所を後にしました。川上はこの日の夜に体調を崩して入院してしまいました。

あまりの急な話でしたが、私なりにもいろいろ考えて、最終的に川上に事務所に移ることを決めました。決めた要因は「就業規則に自信を持っていたこと」「賃金コンサルに自信を持っていたこと」「社労士の塾に入っていること」でした。これだけノウハウがあれば勝負できるかなと。
しかし、それと同時に事務所を移ることへの不安もありました。「でき上がっていた組織に、突然やってきた訳も分からない人間を受け入れてもらえるだろうか…」と。
とはいえ、社労士としての道筋の見えていなかった私にとって殻を破れるいい機会かな、とポジティブに捉えて決断しました。そして、その年の3月21日から川上の事務所に勤務することになりました。
事務所に移ってから、ノウハウのない私は、川上の体調が良いときに自宅に行って、賃金のことを教えてもらったり、退職金のことを教えてもらったり、就業規則のことを教えてもらいました。
しかし、川上はその年のゴールデンウィークに体調を崩してしまい、入院し、緊急手術をしました。5月末に自分の命の危険性を悟ったのかもしれません。なぜなら、川上は私たちに引継ぎが間に合わないと思ったのか、後輩の社労士さんに事務所を売却することを決意したからです。川上は3年かけて私たちに引継ぎすることを考えていたようでした。
「6月中旬に川上労務センターを買収することを後輩の社労士が決断したので、7月には事務所を移ることになる」と川上から聞かされました。
「竹澤さん、事務所を買ってもらえないでしょうか?」
また、急展開する話に私自身慌てふためいてしましましたが、そんなタイミングで、事務所のナンバー2として川上が病気で留守にしていた事務所を切り盛りしていた松田から相談がありました。「竹澤さん、事務所を買ってもらえないでしょうか?」と。
私は当時、自宅マンションを買ったばかりで、お金は一切ありませんでした。しかし、自分たちの手で事務所を護って行きたいと思っている彼の心意気に背中を押されて、私は事務所を買うことを決断しました。

恥ずかしながら、自分一人では事務所を買うお金がない私の懐事情を松田に話したところ、彼は「僕も出せます」と言ってくれました。また、松田と同様に長く事務所に勤務していた難波にもこの話をしたところ、彼も「出せます」と言ってくれました。
彼ら2人の懐事情も大変なはずなのに、自分たちの手で事務所を護っていく決断をしてくれたことに私の胸は熱くなりました。そして3人で事務所を買い取ることに決めました。
それから程なくして、買収する予定の社労士さんと川上の親族が事務所にあいさつに来ました。しかし、私たちは、自分たちで事務所をやっていきたい旨を、買収予定の社労士さんと川上の親族に伝えました。当時の川上はコミュニケーションを取るのが難しい状況であったため、後日、改めて川上の親族に「川上さんが作った事務所は自分たちが買わせてほしい」と申し出ました。
そんな中、6月下旬、川上が再び倒れてこん睡状態に陥ってしまいました。そして残念ながら7月23日に川上は亡くなりました。
川上の死後、親族は私たちに事務所を売ってくれることを決断してくれ、私たちが事務所を買わせていただきました。事務所を買う予定だった社労士さんは私たちのために一歩下がってくれたのです。本当に感謝しかありませんでした。
私が代表に就任し、晴れて新たな事務所の体制がスタートすることになりました。
私たちに事務所を任せてくれた親族や亡くなった川上に恥をかかせぬよう、死ぬ気で頑張ることを私は心に誓いました。
全クライアントが契約を継続してくれた
川上が亡くなったことは悲しいことですが、現実問題としてクライアントを宙に浮かせる訳にはいかず、悲しんでいる時間はありませんでした。もちろん、事務所の新しい船出に浸っている場合でもありませんでした。とにかくクライアントに不安な気持ちにさせないよう、私、松田、難波の3人で全クライアントを必死に回りました。
川上からは生前、「私が代表を退いたら1割くらいはクライアントが減ると思う」と何度も言っていたので、私は覚悟しつつも、その1割をもっと減らせるよう必死に回りました。その結果、ありがたいことに、解約どころか、多くの社長さんたちが私たちを励ましてくれて、全クライアントがそのまま契約を続けてくれました。
とにかく引き続き契約を続けていただいた社長さんたちには感謝しかなく、また、今まで一生懸命仕事をしてくれていたスタッフにも感謝しかありませんでした。
結果的に事務所としての引継ぎもほとんどできておらず、ほとんどゼロに近い形でのスタートです。
しかし、手続き関係や事務組合の関係は実務担当もいたので、日常業務は回せるし問題はありませんでした。しかも、スタッフみんなが仕事ができるので、不安は全くありませんでした。しかし、コンサル業務の一部が実はあまり社員には引き継がれておらず、分かる人間がいない状態でした。

幸い、川上が残してくれていたノウハウもあり、また代表が変わっても社労士の塾を継続させてもらえたので、ここでしっかりと勉強していけば何とかなると思いました。
半年後、今まで川上が毎年やっていた賃金セミナーを初めて私が担当しました。出来はイマイチでしたが、私の出来とは反比例してセミナーの反響が大きく、ビックリしました。
川上が残してくれ、さらに塾で学んだ内容をベースにセミナーを行ったのですが、その内容がいかに社長さんたちのニーズにマッチしているかを実感することができたのです。「これを地道に続けて行けば明るい未来は見える」と、そこで初めて私は確信しました。
あれから、かなりの時が経過しましたが、おかげさまで業績も順調に伸びています。
これは先代の川上が残してくれたもの、そして屋台骨を支えてくれている松田や難波を始め一生懸命仕事をしてくれているスタッフのおかげです。
私の役目は先代の川上から受け継いだものを、しっかりと学び、発展させて、まだ見ぬ次の代にバトンを繋いで行くことです。そのためにも事務所を支えてくれているクライアント、そしてスタッフにも最大限の報いを与えることができるよう、全力で頑張って行きたいと思います。
今後とも、よろしくお願いします。